昭和四十八年六月十八日 御理解第六節
「眼には見えぬが神の中を分けて通り居る様なものじゃ。畑で肥をかけておろうが道を歩いて居ろうが天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」
何処へ居っても神様の御守護の中に、又は神様のお広前に居るのと同じ事だと。神の広前は世界中であるぞと云うこと。
これは畑で肥をかける、云うならば汚いことをして居ろうが又は日常生活、云うならば何でもない道を歩いて居ると云った様な中にあっても神の中を分けて通り居るようなものじゃと。
そういう神様を私共が身近にいわゆる実感しながら生活をさせて貰うと云うことが信心生活なのです。そこに神の姿があり、そこに神の声があり、いうならば神様のいわばおうところの中にあって、何時も絶えずその神様に抱き抱えられておると云った様な実感。そこに有難いことじゃ、勿体なんことじゃと云うものが感じられる訳です。
昨日信徒会が甘木の教会でありました。ここからも秋永先生意か六名の方達がおかげ頂いてみんなここへ帰って来まして大変おかげを頂いて、もう本当に行けば行くだけ、おかげを頂けば頂くだけおかげを頂く。度々に・・・これはもう、本当にまだ信徒会の本当の味わいを知っておらえない方達にお話して、みんなおかげ頂かにゃいけんと、云うてからお話をして居られます。その中にお話の上手な人の話はすらごとを言わんならん。云うなら落語家か噺家が話すような、笑わせたり泣かせたりするとどうしてもそこに嘘が混じる。だから話の上手な人の話しじゃいかん。と云った様な話が出たと云うことなんですけれどもね。
ばってん、合楽の場合は本当に勿論、話が数珠とか下手じゃないけれども、お互いのおかげの話を聞かせて貰いよると、まるきり嘘の様なおかげを頂話をされますもんねと云うことでした。
もうそれはそれは本当に嘘みたいな話しなんです。
丁度私が四時の御祈念が終って茶の間に出るところへ皆さん見えましたから、丁度茶の間のテレビの上に先日からお供え頂いた地球儀が飾ってありましたから。例えばその地球儀のお供え何かを頂いたと云うこともです。まるきり見とらんなら嘘のごたる話。
地球儀のお供えがきた。私の誕生のお祝いをしたいと云う方が地球儀のお供えをした。それは注文したのが出来てきたからとこういう訳なんです。
その朝私が下がらせて頂いて、新聞をちょっとみらせて頂いたら、漫画の欄に地球儀の絵が描いちゃる。しかもその地球儀にはたきをかけておる絵であってね、地球を清めようと云うような絵が書いてあって、私が何時もそんな事を、いわゆる世界真の平和とか、和賀心時代を世界中に広めなければならないと云った様な、いわゆる地球を清めて行こうという、それこそ地球儀のお供えなんか、もう恐らくこれからもないことでしょう。
そんなら地球儀の漫画が、しかも私が言っておる地球を清めよう、美しゅうしようと云った様な漫画が又出ようとも思われません。 その朝キチッとおう一致するところなんか。
もうそれはね、もうそれこそ話の様な。
昨日お話の中に善導寺の原さんのこと聞いて頂いたんですけれども、その後に原さんが、もう親先生、あの事を例えば主人がそのおかげをおかげと実感しとるなら、先生実はこういう不思議な事があったんですよと云うて、改めてお取次をされます。
大変それこそ、もう死なっしゃれやせんじゃろうかと云うごとひどかった。そこでお届けが、医者に見せとかんでよかろうかと云うことでしたから、丁度時期だから医者に見せとくがよか。但しそれは安心のいく為に医者に見せるのぞと云う事であった。
すぐ見せられた。さあ、家では大変ひどいと思うておったところが、お医者さんの見立てはもう案外にこれはいっときばっかりに肺に水が貯っとる。それでこれはもうじっと家で養生しよりゃ、もう水も取れてしまうし、心配することいらんですよと、もうそれだけで家中の者も本人も安心をした。
ところが先生、もうとにかくまあそう言われたけれども、死んだ方がましと云うごとそれから益々きつうなった。お医者さんの見立てはそうじゃった。薬を飲めば飲む程御飯がいけんと云う様な状態が続いた。
ところが先生、おとといの謝恩祭を仕える二、三日前から御飯が頂けるようになったと、丁度その前日にです、そういう楽になられる前の日に、もうとにかく俺はきつうしてきつうしてどんこん出来ん。とにかくどこか悪いに違いないけんでと云うて、もうそれこそかかえるようにして昌一郎さんが自動車に乗せて今度はわざわざ病院に行ってレントゲンをかけて貰った。
そしたら、これは心配いらんばのと言うてあったのがです、これはああた、両方に水が貯っとる。これはいっときばっかり入院せにゃ出来んと言われた。
その晩からです、御飯がいけるごとなったのは・・・そして起き上がって楽になって、私が謝恩祭の時、云うならジタバタしよんなさったし、また御直会の時には、もう自分でかんどっくりを持ってからどうぞどうぞと云うて、とてもあれが気分が悪かったり調子が悪かったなら、とてもあんなおしょうばんどもして回られんですよね、気分的に。と云う程におかげを頂いて、いわば医者の見立てとはいつも反対反対。もういかに医者やら薬やらが当てに頼りにならんかと云うことを、もう目の当たりに見せて頂いた。そういう不思議な事実があったんですけれども、主人も本当にそれを神様の働きちゃねえと分かっとりゃ、親先生にもあんな風に申しませんでしたでしょうけれども、側におる私共の方が不思議な事じゃ、不思議な事じゃと云うておりますとお届けがあった。